No.796: 「あくせる」と「ぶれーき」
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2007年03月20日の日記の概要
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.これは比喩だけど、走行中にどちらかを残すために選べと言われれば「あくせる」を選ぶと思います。どうやら私はそういう人間のようで、薬学に関する考え方もどちらかと言えば過激派であって、未知の副作用や未知の薬害の可能性を考慮するのは自分の役目ではないと考えている。ゆえに研究職と一括りに言っても、Clinical Research Cordinator(CRC)や厚労省側の人間にはならないと思うし、院内、調剤薬局を問わず臨床家にも向いていないと思う。そして医薬品情報を医師に提供するMedical Representative MRになろうとも思わない。
上に挙げた職業に従事する人たちは現代社会の医療を維持していく上で不可欠で、誰もが必要とされているけれど、そこには入ろうと思わない。近い将来、薬剤師になった後も、多分「研究」職に就き、その中でも急進派か過激派に属するんだと思う。
そして、社会を維持する任務を負わない研究者(そして大多数が創薬に携わると思う)には物事を「進める人間」と、その進行を「止める人間」がいるべきだと思う。少なくとも、事実を曲げて利益のために物事を「捏造する人間」は両者の敵であって、研究者とは呼べないので考慮しなくて良い。止める力が機能しない場合は判明しつつある薬害や副作用を見逃してしまい、多くの人の健康や生命を損害する。でも失敗を恐れて立ち止まると今救えていない人は永遠に救えなくなる。薬学の研究における「失敗」はだいたい人命に絡むもので、どんな失敗でも多少の人間が死ぬし、非常に稀な特異体質を遺伝的または環境により持つ場合は不特定かつ多数の患者のために開発された薬品では考慮されない場合があるだろうと思う。
そこでどう考えるか。副作用があるから使用を控え、似た構造の薬はもう研究してはいけないとしてしまうのは余りに短絡的で愚かな行為であると私は考える。たとえばタミフル Oseltamivir を服用後に異常行動を示す可能性が示唆されたのなら、その事実があるかどうかを検証するのは誰かがやらなければならないわけで、たとえばそれは厚生労働省の人間だったり、そこから依頼された研究機関であると思う。その結果、異常行動を起こす可能性があるならば、「進める」側の研究者はタミフルの構造から、なぜその副作用が起きたのかを解明し、脳神経についての研究や、別の(研究するまで分からないことも多いだろうけど)関連した病気の治療に役立つ手がかり、または直接の治療薬を開発しようと考えるだろう。というか副作用について研究すれば何かが見つかるはずで、何もないのに多くの人に深刻な副作用が引き起こされる可能性は余りないと思う。(あったら根拠なく不安を煽ったmass mediaのせいだろ)そのあたりは統計学を良く知った、「止める」側の研究者が解明すればいい。
研究者は過去またはこれから起こる失敗(副作用、薬害)から学べばいい。しかし、失敗の責任を取るのは薬品の開発者であってはならないと思う。認可した機関であるべきだ。開発者に製薬会社が含まれるかは法律の問題だろうけど、少なくとも、開発当初に全く予期できなかった失敗の責任を科学者に期待するのは門違いだと思う。「進める」人間を邪魔していいのは証拠を持った「止める」人間か、予算だけだといいなぁ
ということで、私が間違った方向に突き進んでいるのを見かけたら言葉で(拳はやめましょう。)止めてあげてください。それでも止まらない場合は、止めようとする人間が間違っているか、進んでいるように見えるけど実は「捏造する」人間に堕ちたということです。全力で見逃さないでください。