No.829: 「生まれ変わり」について猛然と語ってみた
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2007年04月27日の日記の概要
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.最初に思いついた記事の題名は、「設定崩壊と虚構」でしたが、漢字が多く、検索でも弱そうだったのでここに書いておくに留めました。
最近、「設定崩壊(矛盾)」と「虚構」の違いが分かるようになりたいとか思っている。どれほど綿密に作り上げられているようにみえる物語でも、些細な綻び、違和感を感じた瞬間に駄作に思えることがある。しかし、その瞬間に感じた綻びや違和感の正体が、単なる自分の狭量さに起因する愚かな早とちりに過ぎない場合も多々あるのではないかと思う。
例えば、AがBの生まれ変わりであると言う物語に必要な虚構を受け入れる際、我々の常識では、生まれ変わり、輪廻転生と聴いた瞬間に、先にAがいて、後にBが生まれたと考えてしまう。
Aの魂が、Bとして再利用されると言う発想に基づくものだと思うが、再利用を実施する担当者が、時間に囚われない立場で輪廻転生を管理していたら、さまざまな方法が考えられる。個人的には、現実には輪廻転生などあり得ないと考えているので、もともと存在しない架空の概念なのだから、時間非依存者によってそれが行われていると考えても、なんら先に挙げた虚構と矛盾することは無いのだ。そもそも仏教で使う「輪廻」では、来世で人間以外に生まれ変わる確率のほうが高いのだから、来世を始める時間の前後は可能であろう。
この視点で見ると、Aの輪廻転生の結果生じたBという存在が、Aが生まれる以前に存在することも可能である。さらには、AとBをほぼ同時期に存在させることも可能ではないだろうか。誰が、AとBが同時に存在することに制限を加えると言うのだろうか、いや制限されないはずだ。しかし、これには強い違和感を覚えると思う。いったい何故だろうか。
それは、本来存在しない「輪廻」なる概念を理解しようとするとき、アルミ缶やペットボトルの再利用のような日常的で身近なもので置き換えて捉えようとするからだと思う。2007年4月27日に回収される予定のアルミ缶がまだ中身を含んで店頭に並べられている時点(例えば2007年4月20日)で、再利用されたアルミ缶に入った飲料を隣に並べることは出来ないから、何となく同時に本質が同じである存在が存在することに我々は納得できないのだろう。
繰り返すが、時間に囚われない存在を虚構として認めるとAの転生の結果得られるBを客観的に見た場合、次の四つが挙げられる。考え漏れがあるかも知れないが。
Case 1.A→B
Case 2.B→A
Case 2’.A(B)が無限ループする。
Case 3.AとBが同時に存在する
Case 1.は通常最も考えやすい順番。時系列に沿った考えで、詳しくないが、仏教でいう輪廻でもこの順序で間違いないだろう。
Case 2.は普段は異質な順序。Aが生まれて、死んだ時代より過去に転生する場合。
Case 2’.は更に奇妙な話で、Aが生まれて、死んだとき、Aとして生まれ変わる場合。これはある意味で最悪かもしれない。全く変わらない人生を永遠に繰り返す、ある意味生き地獄。いや、無限ループ開始の時点で既に最低一回は死んだ後だからそこから後全てを「地獄」と言っても構わないのかもしれないが、考えたくも無い状態。実は、仏教の「輪廻からの解脱」をっていう考えに近いと思う。最近読んだ、谷川流さんの「絶望系 閉じられた世界」で全裸姿の幼女死神が行った残酷な行為もこれに当たる。装置としての彼女曰く「極刑のようなもの」らしい。
Case 3.に関しては、最近思いついた。別に、同時期に存在しても支障ないんじゃね?っていう考え。SFとかで、未来から来たり過去に遡行したり、時間移動ネタが許容されている作品が多いなか、生まれ変わりが同級生でいけない訳がないじゃないかと。更にいえば、クラスメイト31人美少女の全員生まれ変わりでも問題なくね?っていう構想。
収拾付かないから、極端な話に走ってみて、これだけ無数にあるように見える地球生命はたった一つの命を何兆回も時間無視して繰り返し利用しているだけだっていうのでいいよ、もう。
ちょっと考えただけで、これだけ無茶な話が通る「輪廻転生」は、虚構としては便利だが、同時に、やっぱり実際には信じられないなとも思う。況や、これが根底にある仏教をや。
ところで、AIRのネタバレですが、AIRの「国崎往人とそら」、「神奈備命と神尾観鈴」はCase 3.と考えていいんですか?