No.884: ボクはE缶だけは最後までとっておく。
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2007年06月30日の日記の概要
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.だから次は絶対勝つ為に。
ここ二週間は、週末に精神状態が改善される感じ。なんとかやる気も上り坂に差し掛かり、試験は最強状態で迎えられる可能性が出てきました。
嘘です。
試験なんていつも崖っぷち。
タイム連打も試してみたけど試験相手じゃ意味がない!
だから次は絶対勝つ為に
ボクはE缶だけは最後までとっておく。
そんな惨状でも、精神的には、むしろ良好で、何回やっても何回やっても「貴方には鬱の兆候が見られません」ってなる程なのだよ。
とりあえず、組曲「ニコニコ動画」が授業中に脳内再生される以外に「幻覚」はないし、それもまさか実際に音を感じるわけではなく、脳内再生している感覚なので全く問題ない。英語の時間にwombって聴いただけでブーンとか言い出すあたりそろそろ別の意味で末期だけど、試験を前に「そろそろ『ひぐらし』を始めようと思うんだ。」とか言い出す友人ほどやばくはないでしょう。彼が突然「くけけけけけけけけけけけ」とか言い出さないように注視しておきます。言い出したら(゚∀゚)人(゚∀゚)ナカーマ
ブラックジャックによろしくを読んでみましたよ。小学館への移籍前には13巻まで出てて、9巻以降の精神科編から読んでみたわけですが、正面から描こうとする姿勢が見えます。閉鎖病棟の話も出てきたし。キチガイや分裂病という表現も、意図的に使用されていた。表面を取り繕っても無意味だという思想は共感できる。差別についても深い言葉があったと思います。無関心とか利己とか保身が差別に直結する構造も指摘されていて、良質な漫画だったと思う。
敢えて、わがままな注文を付けるとすれば、薬学部生としては、薬の名前が出てこないのが物足りない感じ。やっぱり同じ現実があったとしても、人や病態から見るか、薬や受容体から見るかで随分見え方が変わるんだと思った。すっかり薬を通して医学を見る習慣が付いてしまったというかそのようにしか見えなくなっているというか。
薬が治すのは病気じゃなくて患者だという言葉を思い出したりもした。
人は自分が見ている「現実」以外は見えていないんだろうな~。
今日は大学前の道路わきに紫陽花が咲いている場所を新たに三箇所も見つけた。
あったのに、見えていなかった。これを「発見」という。まめちしきな。
見えるはずのものが見えないのも、見えないはずが見えるのも、そんなに変わらない気がするのに、後者は「治療」が必要なのは何故なんだぜ?
その当人には見えて(聞えて)いるのに!
邪気眼の話ではなくて脳の話。
まあ厨二病もある意味、難治性の特発性精神病だけどね。
寛解には時間が必要。
最近読んだ気がしますが、「普段見えないものが見える」薬があるようですね。一応、規制されている薬物だったと思う。
その薬で見えるようになるものは確かに現実に存在するものだけれど、普段は意識されない背景の構成物に過ぎないようなもの。薬の作用でそれらに意識が向くみたいな解釈でいいのかな。創造性とかそういう方面では確かに夢のような薬かもしれないけど、見えなくて良いものが見えてしまうのも嫌だなぁ。
試験前にそんな薬を飲んだら、きっと不安で耐えられないなww
これ知らないwwwwwwwwちょwwwボスケテって。
でも、その機序に興味はある。
道端の「花」とか、夜空に「星」が見えるのは自分にとってどんな時か。
一般に言われるのは心にゆとりがあるとき。
だけど、自分にとっては、それは何かに打ち込んでいるときな気がする。
今なら薬学の勉強。
たぶん、「息抜き」とか「ゆとり」を感じるにはある程度は頑張っていないとダメなんだろうな~と実感しました。
何かを覚えたり理解するのって、かなり「脳」に影響があると思う。
勉強していたら不安定になることもあるし、逆に勉強していないことが原因で不安定な気持ちになることもある。これまで何度かそういう振幅を感じたけど、過去を振り返って思うことは意外に単純で……。
疑心に駆られたら、周囲はみんな敵。
浮かれているときは、周囲がみんな友達。
人間って単純だなぁ。
実際には人それぞれだし、疑心とか浮かれはあまり相応しい表現ではないけど、言葉の機微は伝わると思う。
どうしようか。我々の自我は究極的にはただの神経細胞の電解質の分布で決まっているとか言われたら。
その可能性は高そうだけど。